世界史2|【8分でわかる】【地図・語呂合わせつき】古代メソポタミア(後半)

世界史オンライン講義

古代メソポタミア(後半)の解説のまえに

この記事では,古代メソポタミア(後半)について押さえるべきところを解説します!メソポタミアで強力であった民族の名前とそれぞれの興亡の流れを押さえることが大切です。ヒッタイト・ミタンニ・カッシートの3国分立から、アレクサンドロス大王の東方遠征でアケメネス朝ペルシアが滅びるまでをわかりやすく説明します。

また、当記事ではキーワードを重要度別に色分けしています。

…センター試験レベル

黄色…国公立・中堅私大入試レベル

となっていますので、参考にしてください。

世界史 古代メソポタミア文明(前半)をわかりやすくもすぐに読めるので、ぜひ復習してからヒッタイト・ミタンニ・カッシートの3国分立以降についての当記事を読んでくださると良いかと思います。

まず,歴史のあらすじを把握し,その後に暗記作業に入っていってください!!それでは始めます!

ヒッタイト・ミタンニ・カッシートの3国分立

ヒッタイト・ミタンニ・カッシートが分立しているところからスタートです。

まず、地図で位置を確認してください。

https://ameblo.jp/a-balance/entry-11587534148.htmlより引用

ヒッタイト王国

インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人が小アジアに建国しました。首都はボアズキョイです。

戦いに秀でており新王国時代のエジプトのラメス2世とカデシュの戦いで争いました。

紀元前12世紀ごろに活躍した海の民によって滅ぼされてしまいました。

いつ(12)でも強い海の民

で覚えましょう。(笑)

ミタンニ王国

メソポタミア北部に建国されました。

紀元前14世紀ごろに、従属させていたアッシリア人が国内で独立したことを発端に衰退し、滅亡に至りました。

意志が(14)強いよアッシリア

で覚えましょう。(笑)

カッシート王国

メソポタミア南部に建国されました。以上のように、3国が分立していた状況は、ミタンニ王国から、アッシリア人が独立したことで変化します。

アッシリア帝国の盛衰

アッシリア人は、ミタンニを滅ぼした後も、領土を拡大させていきました。

前14世紀にミタンニより独立し、前7世紀には全オリエントを統一しました。

んんん??オリエントってなに??ってなりますよね。

オリエントはラテン語で「日が昇る方角」の意味を持ちます。東方世界のことですね。どこから見て東なのかというと、古代ローマから見て東です。地図で指し示すと、以下のようになります。

http://histrace.com/overview_history/orient_unify/より引用

メソポタミアを含んでますね。オリエントという言葉が指し示す範囲はメソポタミアのそれよりもだいぶ広いです。

アッシリア帝国は属州制度を確立し、少数のアッシリア人によって、多様な民族・広大な領土をうまく統治しようとしました。同時に、アッシリア人は被支配民族に、重税をかけ、恐怖を感じさせる強権的な支配を行いました。この恐怖政治は、被支配民族の反感をかい、分裂の大きな原因となりました。

アッシリア帝国が大きくなっていく過程を説明します。

まず、サルゴン2世の時にメソポタミアのほぼ全域を支配しました。領土はまだ広がりました。結果、紀元前7世紀前半には、全オリエントの主要部分を始めて統一して、世界帝国となりました。

領土最大期はアッシュル=バニパル王の時です。

アッシュル=バニパル王は首都ニネヴェ世界最古の図書館を建設しました。

http://civ.uc-style.com/city/asia/assyria_city.htmlより引用

3000年ほど前に図書館がこの地球上にあっただなんてびっくりしてしまいますよね。それほど、アッシリアは栄えていたのですね。

前7世紀前半にはここまで栄えていたアッシリア帝国ですが、前612年には滅亡しています。アッシリア支配下に置かれていたけれど蜂起を起こしたメディア・新バビロニアの連合軍によって滅ぼされるのです。

アッシリア帝国はこうして前612年に滅亡しました。

アッシリアが前7世紀に全オリエントを統一し、前612年に滅亡したという、年代・年号は、

な(7)んでも浪費に(612)アッシリア

で覚えましょう!(アッシリア人はなんでもかんでも無駄遣いしたみたいなイメージです。。。アッシリア人の皆さま、すみません。。。)

その後、オリエント世界は、4つに分裂しました。まとまったり、分裂したりの繰り返しですね。

オリエント4国分立

アッシリア帝国がメディア・新バビロニアに滅ぼされた後、オリエントに建った国は

  • リディア王国
  • 新バビロニア王国
  • メディア王国
  • エジプト王国

の4つです。地図で場所を確認しておきましょう。

https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/メギドの戦い/より引用

エジプト王国

アッシリアの支配から独立し、再びアケメネス朝ペルシアの支配下におかれるまで存続しました。

リディア王国

小アジアにありました。首都はサルデスです。

世界で最も古い鋳造貨幣を使用しました。貨幣を鋳造する技術はギリシア・ローマへと伝わっていきました。貨幣市場の発展は商業発展と交易活性化につながります。

新バビロニア王国

首都はバビロンです。最盛期には、ネブカドネザル2世がバビロン捕囚を行いました。ユダヤ人を強制的にバビロンに移住させたのです。バビロン捕囚の年号は押さえておくと良いでしょう。

新バビロニア王国のネブカドネザル2世によって前586年にユダヤ人は捕らえられ、前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって解放されるんです。これをまとめて、

拒む(586)ユダヤ人 降参や(538)…泣

で覚えてください。(笑)

メディア王国

イラン高原で栄えましたが、アケメネス朝が内部より独立し、滅びました。このアケメネス朝が、領土を広げていきます。

アケメネス朝ペルシアの盛衰

メディアに服属していましたが、キュロス2世の時に独立します。

キュロス2世は、リディア王国・新バビロニアを支配下に収めることに成功しました。その際、新バビロニアが行っていたバビロン捕囚によってとらえられていたユダヤ人を解放しました。

アケメネス朝ペルシアは、ダレイオス1世の時代に最盛期を迎えます。

https://yascovicci.exblog.jp/i104/より引用

ダレイオス1世は、サトラップ制を確立しました。(ちなみに、このサトラップ制、アッシリア帝国が敷いていた属州制を引き継いだものです。)

サトラップ制では、国内を州に分け、それぞれの州に長官(=サトラップ)を割り当て支配させました。しかし、このサトラップ制、これだけではありません。長官たちが反乱などの悪巧みをすることを防ぐために、「王の目・王の耳」と呼ばれる監視官を派遣し、長官たちを監視したのです。

しかし、ダレイオス1世が安定的に統治しようとして行った施策はこれだけにとどまりません。「王の道」を作り、情報伝達をスムーズに行い、軍が反乱の起こったところにすぐに駆けつけやすくしたりしました。駅伝制ですね。「王の道」は下の地図にもあるように、スサ・サルデス間のものが最も有名です。スサ・サルデスの位置は確認しておきましょう。

地図を確認しておきましょう。

http://chireki56.blog.fc2.com/blog-entry-13.htmlより引用

大活躍のダレイオス1世ですが、ギリシャに攻めていったペルシア戦争では敗れてしまいました。ギリシア遠征は失敗に終わり、いよいよ最後の時がやってきます。

結局、アケメネス朝ペルシアは、前330年に、ダレイオス3世の治世の時、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の東方遠征により滅亡しました。

散々(330)やられて だ(ダレイオス)っさ(3世紀)いな〜…

で覚えましょう。

これが、古代メソポタミアから古代ヘレニズムへのターニングポイントです。

では、最後にまとめです!

古代メソポタミアの流れ(後半)のまとめ

  1. ヒッタイト・ミタンニ・カッシートの3国分立
  2. ミタンニから独立したアッシリアによるアッシリア帝国のオリエント支配
  3. 4国分立(エジプト・リディア・新バビロニア・メディア)
  4. メディアから独立したアケメネス朝によるオリエント支配
  5. アレクサンドロス大王の東方遠征でヘレニズムへ

地図を見ながら流れを確認し、関連知識も徐々に暗記していきましょう!!